最近当ブログで取り上げている秋山邦晴著「
昭和の作曲家たち―太平洋戦争と音楽
」(過去記事は→
こちら) を読んでいて、「濹東綺譚」「つゆのあとさき」「ふらんす物語」などの名作を書いた小説家・永井荷風(1879〜1959)が書いた知られざる音楽映画のシナリオについての記述にぶつかりました。1938年に荷風は「浅草交響曲」と題するシナリオを書き(映画化はされていない)荷風全集にも収録されていますが、今回紹介するのは別のものです。
《――荷風さんは戦時中にもう一本シナリオを書いておられたようですね。荷風の昭和十八年十一月十日の日記に「音楽映画の腹案成れる」とありますね。
菅原 そうです。「左手の曲」というシナリオです。内容は、ラヴェルに〈左手のピアノ・コンチェルト〉がありますね、あれを宅孝二が荷風さんに弾いて聴かせた。それに非常に興味をもったのです。それによって、戦争で右手を失った軍人が、左手だけで曲を弾いて立ち直るという筋のシナリオを書いたのです。》
上記は荷風と親しかった作曲家・菅原明朗へのインタビューの中から引用したものです。宅孝二は当時の日本を代表するクラシックのピアニスト兼作曲家。〈左手のピアノ・コンチェルト〉は現在の一般的な表記では「左手のためのピアノ協奏曲」ですね。ラヴェルがこの曲を作曲することになった経緯を手元にあるCD
ラヴェル:ピアノ協奏曲
(デュトワ指揮モントリオール響、ピアノ独奏パスカル・ロジェ)のライナーノートから引用します。
《この曲は、第一次大戦の戦傷で右手を失ってしまったオーストリアの名ピアニスト、パウル・ヴィットゲンシュタイン(1887−1961。有名な思想家ルードヴィヒ・ヴィットゲンシュタインの兄に当たる)の依頼により、1931年から翌1932年に作曲された。ヴィットゲンシュタインは、ラヴェルのほかにもプロコフィエフ(ピアノ協奏曲第4番)、ブリテン、R・シュトラウス、コルンゴールド、フロラン・シュミット等にも左手ピアノのための作品を依頼し、結果として音楽史の中に「左手ピアノ」という新しいジャンルを切り拓くことになった》
戦争に行って右手を失くしたピアニストが、左手のための曲を演奏することによって立ち直るという映画を構想した永井荷風。そのころの荷風の日記「断腸亭日乗」には「音楽映画の腹案成れり」という言葉とともに、ラヴェルの評伝と思われる仏語の原書を読んでいる旨の記述があります。また別の日にはドビュッシーに関する原書も読んでいます。シナリオ執筆のためにラヴェルと、同じ19世紀末から20世紀初めのフランスの作曲家ということでドビュッシーのことも勉強していたのでしょうか。しかし時局柄、結局この映画の撮影は実現しませんでした。
《――なぜ映画化を禁止されたのですか? それこそ軍人を扱った内容なのに……。
菅原 つまり、戦争で傷ついた人間を表面へ出して、それを問題にするのはいけないということでした。それだけでなく、ラヴェルという外国の曲を扱うというのが、もういけなかったのです。それで、これもシナリオはできていたけれども、映画にはできなかった。ところが、こちらのほうのシナリオは、その後失ってしまって、影も形もない。一度、東宝へはこのシナリオはいっているのです。》
シナリオが残っていたら、戦時中は無理でも戦後に映画化されなかっただろうか、などとつい考えてしまいます。一体どんな映画になったか。荷風全集第17巻に収録された「浅草交響曲」のシナリオ末尾に荷風は《立案者ノ希望》として《コノ映画ハ音楽ヲ聴クコトヲ主トシ》《人物ノ顔ハ成ルベク避ケテ写サズ》《一見静物画ノ妙趣ヲ示サレタキ》などと記しています。「左手の曲」でも同様な音楽映画を想定していたとして、戦後すぐの東宝の監督で誰が適任だったか? う〜ん・・・
音楽担当はラヴェルに私淑していた深井史朗が本命でしょうか。深井なら朝飯前でオリジナルの左手のための協奏曲を書いてしまいそうです。東宝映画に多く書いている早坂文雄が対抗か。そういえば早坂の「ピアノ協奏曲」の出だしの不気味な低弦はラヴェル「左手の・・・」の冒頭に似ていました。「羅生門」のボレロもあるし・・・大穴は伊福部??